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7月16日
教え子からの手紙 【長文です】
何度読んでも気持ちが引き締まります。
お読みください。
Iida Tomohiko
2012年7月14日 ·
『菊池省三先生の教育について』
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菊池省三先生
プロフェッショナル 仕事の流儀への御出演、おめでとうございます。
先生が30年間にわたって作り上げてこられた教育哲学、教育手法のほんの一部とは言え、多くの人にその実践が伝わることは、教え子として大変嬉しく思います。
もうすぐ千人くらいになるのでしょうか、先生に体当たりで学ぶことができた幸運な生徒の一人として、先生及び、先生を支える方々に、改めて感謝申し上げます。
この機会に思うのは、師を持てることは本当に幸せだということです。
菊池先生を勝手ながら「恩師」と仰いでいるのは、先生のもとを巣立った後に、次のことが心に残っているからだと思います。
◯愛情・情熱があること
◯生徒本人が想像する以上の力を引き出せること
◯ぶれず、ビジョンがあること
これからも熱い教育を生徒に、そして今後はより多くの人に届けて下さることを期待しております。
昔とお変りないようにお見受けしますが、御自愛下さい。
2012年7月14日
教え子より
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さて、ここからは、先生の生徒であった一年間を、薄れかけた記憶を辿りながら書き留めていきたいと思います。
■はじめに
もう20年前になりますが、菊池先生が教育にかける情熱は凄まじいものがありました。
その熱量に応えるように、私たちは毎日真剣勝負で、自分が最大限努力することは勿論、クラス全体としての成長が何よりの喜びであり、目標でした。
年間180冊の本を読んだり、毎日欠かさず新聞を読んだり、3年生が6年生とディベートしたりと、その指導は小学3年生にも手加減なく、教育課程はあってないようなものだったと記憶しています。
今では、当時の教育のやり方が社会で許容されないかもしれませんが、ご指導のお陰で、「読み取り・聞き取り」、「考え」、「意見を述べる」ことができるようになりました。
これは、コミュニケーション能力、論理的思考能力が鍛えられたと言うと少し言い得てないので、私の実感に近い言葉であれば、「自分が直面したことに対して、意見が持てるようになった」と了解しています。それこそが教育の有難さであり、先生からのプレゼントだと大変感謝しています。
クラスには、それまで問題児扱いされてきた子もいて、始めは学級崩壊に近い状態だったかもしれません。そんな私たちがすぐに規律のある社会化された集団になっていったのは、先生の教育のお陰と言う他ありません。生徒を信じ、諦めず語り、子供たちの殻を破って輝かせることは、教師の誰もができるわけではなく、ただただ尊敬しています。
また、ご存知の通り、北九州市小倉は非常に柄が悪い地域です。斜に構える行動習慣があり、教育への期待が低い公立学校において、クラスの全員を変え続けているその実績は本物であり、どんな教育理論よりも素晴らしく、我々社会の希望の光と言っていいのではないでしょうか。
教育手法に賛否、批評など様々あるでしょうが、私は菊池先生の生徒でよかったと心から思っています。
■菊池省三先生の教えとは
菊池先生の教育の代名詞として、コミュニケーション能力を育てることがありますが、それを「聞く」と「話す」に分けるなら、今も残っている教えは、人の話を「聞く」大切さです。
クラスメイトの真剣に考えた末の意見は、ハッとする視点を提供してくれるものですし、スピーチは、発話者の人柄や、発話者と聞き手との関係性が表れるので、クラスメイトを大事にしようと思っているからこそ、人の話を聞くことの大切さに気付いていきました。
全員が真剣に考える状況を作ることや、他者を助けることを尊ぶ集団文化を作ることは、非常に難しいことですが、菊池先生はその超越した指導力で実現していきました。
「話す」ことに関しては、始めは、人前でスピーチなんてできないものです。
まずは型を習得するために、目線の配り方から、話の構成までを繰り返し練習していきました。そうすると、表現や内容が自然に伴ってくるようになり、更には思考の幅も広くなっていったように思います。
コミュニケーションの更なる鍛錬の場としてのディベートでは、参加者全員が意見の多様性を認識し、最後まで全員が議論の輪の中に入っていることが大切だったのではないかと、私は思っています。
もう一つ大事な教えは、「本を読む」ことです。
それは、語彙力や論理的思考力などを習得する術を教えて下さったというよりも、学ぶことそのものを教えて下さったようなものです。
人の話を聞き、本を読むことで他者の思考を吸収し、自分を作っていくきっかけを与えて下さいました。
子供の時分は素直で、誰しも洞察力や思考力は備わっているものです。
周りに負けたくない、先生の期待に応えたいという気持ちに火が付けば、周りのいい所を真似て、自然と切磋琢磨していくものでしょう。必ず、驚くほどに成長します。
そうして個々人は、凄い早さで力を付けていったように思います。
■私たちは教育とどのように付き合っていけばよいのでしょうか。
学校は社会の縮図と言われます。
多様な生徒が集まる公立小学校は、たまたま住んでいる地域が同じ子供たちが、同じ目標を持って過ごすわけで、社会における人間関係模様、自分が育ってきた社会の多面性を捉えることができます。
そうして故郷を理解できたことや、高等教育へ導いてくれたことを考えると、教育は地域の財産だと、地方出身者として強く思います。
私には教育の在り方を語ることができませんが、志を持ち、責任を取れる人や、プロフェッショナルな人が主体的に教育現場に関わりつつ、最前線は教師に任せる社会であってほしいと個人的には思います。
教育は、教師、親、先輩などその人の全人格をかけてなされるものかもしれません。
ただ、幸いなことに、先生が長年かけて洗練されてきた教育手法が、本や講演を通して学ぶことができます。
菊池先生の授業は、全ての教師に参考にして頂きたいです。教師だけではなく、全ての社会人に見てほしいのです。小学校のクラスで熟議がなされ、民主主義が育まれる土壌ができていることに感銘を受けるはずです。
才能を開花させ、ワクワクしながら学ぶ子供たちの姿を見ると、彼らの未来だけでなく、私たちの社会の可能性にも期待したくなります。
教育者たろうとし続ける、その生き方は尊いものであり、だから私は教師を信頼し、尊敬もしています。教師という素晴らしい生き方を選択した方々の規範や情熱に今後も期待します。
子供ができたときは、教師が信頼される地域社会で育ち、よい教師に巡り会ってほしいと切に願っています。
■私たちは教育をどう生かせるのでしょうか。
菊池先生の教育を受けた生徒が、その後、如何に生きているのか関心ある方もいらっしゃることでしょう。
ただ、私は10人ほどのクラスメイトの近況を少し知っているだけですし、私自身に関して言えば、試行錯誤しながら目の前のことに一生懸命なだけです。
教育に成果を求めることは無粋かもしれませんが、長い目で見たそれは、今の時点では明快に言うことができません。
ただ、教え子たちが共有している一つ確かなことは、菊池先生は自分のルーツを思い出させてくれる特別な存在だということです。
そこには、途切れない人の繋がりがあり、先生や同級生とまた一緒に何かしたいという想いがあります。
菊池省三という教育のカリスマが見るその先を、私たちも一緒に見てみたいのです。
私がこれまで学問を楽しめたのは、菊池先生に出会うという単なる僥倖に巡り合えたからです。豊かな公共の恩恵を受けて育った人間なので、何か生み出せるようになったら同じ場所に返したいと思うのは自然なことです。
また、菊池先生から受け取ったものを、次の世代に渡すのが私たち教え子の責務かもしれません。
そう思っているのは私だけではないはずです。
教育は、人の繋がりや想像力をも与えてくれました。
地元に住み続ける人がいる一方、他の場所に居場所を構えるも、いつか帰る場所があると思える幸運な人間たちが多くいます。
住む場所が違えど、想いを共有している人たちが教育を通じて得たものを時々思い出し、一歩動けば、私たちの住む社会はまだまだ面白くなっていくはずです。